幾つもの時代を超え、何人もの人の手を経て紡がれてきたモノ。そこにたくさんの想いが込められていると思うと、不思議と胸が熱くなってしまいますよね。 駅伝などのスポーツやお祭りを見て感動してしまうのも、たくさんの人々が関わり、その想いが伝わってくるからなのでしょう。
今回ご紹介するのは、そんな幾つも人の手を経て、変化し、現代まで受け継がれてきた縁起物・甲州親子だるま。 白い体色に、親子で一緒の姿。特徴たっぷりのこのだるまは、一体どういう歴史からこのような姿になったのでしょうか?
親子で白い。とにかくめずらしいすがたかたちが目を引くこのだるま。 名前を甲州親子だるまといい、山梨県で活動する、民芸工房がくなんの二代目・斉藤岳南さんが製作しています。
大きな親だるまが、小さな子だるまを抱えている形は全国的に珍しく、家内安全と子孫繁栄、さらには独り立ちする子へのお守りとして、人々に永く愛され続けてきました。 どしっと構えた親だるまと対照的に、子だるまの表情はどこか嬉しそうに見えます。眺めていると、親だるまと子だるまの楽しそうな会話が聞こえてきそうです。
子だるまに髭が生えているのは「親より立派になってほしい」という願いが、子どもの目が真っ直ぐを向いているのには「自分の思う道を突き進んでいってもらいたい」という願いが、それぞれ込められています。
甲州親子だるまのベースとなっているのは、山梨県に伝わる甲州だるま。 百年以上の歴史を持つ伝統的なだるまです。
その表情は、かつてこの地で活躍した武田信玄への親しみを込めて、堀が深く、鼻は高くつくられています。また神棚を拝む人と目が合うように、目玉を下寄りに入れるのも特徴の一つです。
加えて眉毛は「亀」、髭は「鶴」をそれぞれ変形させたモチーフが描かれており、縁起の良さを表しています。
甲州だるまは誕生以来、甲州だるま職人のもと時代を超えて制作されていましたが、その数は次第に減少。昭和のころには、文化として途絶えかけているような状況だったといいます。 そんなとき郷土玩具職人として活動を進めていきたいと考えていた岳南さんのお父様が甲州だるま職人のもとを訪ねたそうです。 何度も足を運び交流を深め、紙の張り方や筆の使い方を学び、さらには大工の技術を用いて甲州だるまの木型を自作。 そうしてお父様のだるまづくり職人としての歩みが始まったといいます。
さて、ではなぜ甲州だるまから甲州親子だるまが生まれたのでしょうか?そこには山梨県の歴史と、岳南さんのお父様の匠の技がありました。
かつての山梨県の経済は養蚕によって支えられており、養蚕と綿の出来は経済の動向を大きく左右するものでした。 このころの養蚕はまだ規模が小さく、カイコの自然孵化にたよる年1回のものだったのです。 そこで農民たちは、その豊作を願って繭玉(まゆだま)の形や綿の花の色をした「白だるま」を木綿(もめん)で作り祀っていました。
だるまを作るのは塗料の乾きやすい気候が適していることから、農家は田植えと稲刈りの合間の期間を使った副業として、蔵の中でだるまを作り生活の足しとしていたのです。
そして17世紀ごろ。白だるまを模し、豊作の結果である家内安全や子孫繁栄といった願いを親子の形に託した「甲州親子だるま」が誕生したのです。
甲州だるまが、初代岳南さんに承継されたのち、甲州親子だるまもまた承継され、新たなテイストが加わり現在の形となっていきました。
あらためて甲州親子だるまを見てみましょう。 特徴的な白い体の横には松竹梅の絵柄が描かれ、縁起の良さが表されています。 そして枝や輪郭に用いられている金色は達磨大師の衣のしわを表現しており、お祝いのような華やかな雰囲気を醸し出しています。
まるで初日の出のように、見る者をウキウキな気分にさせてくれるだるま。それがこの甲州だるまなんです。
数百年の歴史を経て、現在も親しまれている甲州だるま。甲州親子だるまは、その甲州だるまの新たな姿なのでしょう。 伝統を尊重し、受け継ぎ、新たな風を吹き込む。 伝統を継承していくうえでのあるべき姿を見た気がしました。 親が支え、子が未来を見据える。だるま親子の絆が、安産祈願や家内安全といった祈りを叶えてくれるのですね。