こんにちは!オマツリジャパンの高橋です。
古くから日本の暮らしを支えてきた瓦。現代において瓦葺きの家は数が減っていますが、それでも見かけるとどこか安心してしまいます。瓦と長く歴史を歩んできた日本人ならではの感覚なのかもと思っているのですが、気のせいでしょうか?
さて今回ご紹介するのは、そんな瓦を使用した縁起物・瓦猿。和歌山県和歌山市田中町で、古くから親しまれ、かつては多くの瓦職人が制作したといわれている品です。
現代では野上家の野上さんの家系のみが製造に関わられています。
瓦猿は読んで字の如く、瓦でできた猿の縁起物。小柄ながらも、瓦製なだけありズッシリとしており、ヒンヤリとしたその触り心地は所有欲を刺激してくるものがあります。
製造方法はシンプルで、専用の型に瓦を流し込んで固めるというもの。
製造には、江戸時代より先祖代々瓦屋さんだった野上さんの家に受け継がれている型を使用しています。型を大切に扱い、日本三大産地の一つ・淡路の瓦屋さんに預け製造をしてもらっているそうです。
またこの瓦猿は、両手に吉祥文様の桃を抱いています。
桃は邪気を払い、不老長寿を与える効果があるとされており、現代では安産祈願や子授けの意味を持って奉納されることもあるといいます。 何を訴えるでもなく虚空を眺めるその表情はどこか愛らしく、吸い込まれてしまいそうなほどです。
そんな表情と手に抱えた桃の彩色は手作業によるもの。一つひとつ、色が落ち着くまで何度も何度も、野上さんと奥様が色付けをされているそうです。
瓦猿の起源は江戸時代。当時、和歌山県の和歌山市田中町は瓦町と呼ばれ、瓦職人の街として栄えていました。
江戸幕府が成立した後の近世と呼ばれる時代では、各地でお城が建築されました。その整備に使うべく城下町では瓦生産業が発達したのです。
和歌山城は、1585年(天正13年)に築城されたお城。豊臣秀吉が紀州統一を果たしたことで計画が立ち上がり、弟の豊臣秀長が築城に関わりました。 築城の名手である藤堂高虎が老中として初めて手がけた近世城郭と言われており、山頂に築かれた美しい白亜の天守閣が特徴的です。
その後、1619年(元和5年)には徳川家康の10男である徳川頼宣が城主となり、二の丸を西に広げ、砂の丸、南の丸を増築。また同時に徳川御三家である紀州徳川家が成立しました。紀州徳川家は、後に二人の将軍を輩出する名家となっていきます。
町は紀州徳川家の監督のもと、城を中心に整備され、「大水道」とも称された下水道設備を完備。産業では黒江塗(くろえぬり)や、みかん栽培などが産業として推奨され、成長していきました。また紀州徳川家は、千利休を祖とする茶道流派・表千家との関わりが強く、茶道文化も発達。
江戸後期には約9万人の人口を擁する全国8位の近世都市となっていたのです。
こうした背景もあって大阪に程近い和歌山県では商売人たちが験(げん)を担ぐために、様々な風習が存在しており、“瓦猿”もそんな験を担ぐ縁起物の一種でした。“変わらざる”とかけ、商売繁盛の継続を願ったのです。
制作された瓦猿は、瓦職人の手によって栗林八幡宮境内の日吉神社に奉納されたと言われています。
猿は日吉神社の総本山である比叡山日吉大社において、鎮守・日吉山王権現の遣いとされていました。そのため、職人は猿の姿を模した瓦を神社へご奉納したのです。
瓦猿の誕生に大きな影響を与えた、和歌山城の城下町で瓦町である、田中町。現代でも、各地に残る紀州東照宮や和歌山城などからは、その栄華の名残を感じることができます。
特に、徳川頼宣が西の丸御殿に築いた庭園・西之丸庭園は、秋になると山水画のような風景が楽しめる庭園として人気。秋になると紅葉が見事に色づくことから、紅葉渓庭園とも呼ばれ、親しまれています。
一方で江戸時代は数多く活動していた瓦職人ですが、時代と共に数を減らし、同時に瓦猿も姿を消していきました。
そうして現代、瓦町の歴史を伝える瓦猿を生産されている方は、野上屋の野上さん一族のみとなっているのです。
400年以上の歴史を超え、和歌山の人々の心に残り続ける紀州徳川家の足跡。 瓦猿は、その大きな栄華の中にある一つの文化だったということがわかりました。ただし忘れてはならないのが、瓦猿は商人を起点とした文化だということ。 そんなことを思うと、「型が摩耗して丸みを帯びてきた」という瓦猿の細部から、江戸時代当時を暮らした人々の細やかな息遣いが聞こえてきそうです。