堤人形とは?
かつて江戸時代の頃、日本三大土人形の産地と言われていた、南の博多、西の伏見、そして北の堤でした。
堤町があるのは、伊達藩仙台の城下町から少し北。町には窯元と人形屋が並び、たくさんの人々が行き交っていたといわれています。
窯元は本業として堤焼を焼くかたわら、堤人形を制作していました。地域の人々に「おひなっこ」と呼ばれ親しまれていたといいます。
一つの堤人形を作るのに必要な順調にいっても2〜3か月ほど。一体一体、丁寧に仕上げられていきます。 江戸時代より伝統的な工芸品ですが、現代は職人さんの数が激減。この堤人形の職人である、つつみのおひなっこ佐藤さんはそういった状況でも「伝統を繋いでいきたい」と承継しました。
佐藤さんは、堤人形や、同じように仙台の伝統工芸品である松川だるまを手掛けながら、「伝統工芸の魅力を知ってもらいたい」と精力的に活動されています。
“品物を超えた繋がりを”仕事を辞め、家業を継いだ“つつみのおひなっこや”佐藤さんの決意
趣ある姿に目が覚めるような冴えた朱色が特徴の堤人形。宮城県仙台市で受け継がれてきた伝統工芸品です。現在、その職人として活動しているのは、同じように仙台の伝統工芸品・松川だるまなども手掛ける“つつみのおひなっこや”の佐藤さん。子どものころから堤人形をはじめとした伝統文化に、当たり前に親しんできたといいます。
そんな佐藤さんの価値観が一変したのは「外の世界を経験したい」とサラリーマンをしていたときのことでした。その後、佐藤さまはお父様に承継の意思を伝え、修行へ。先生の下で技巧や考えを学んだのち、現在に至ります。
「地域の方々の想いや努力といった歴史を未来に繋げていきたいと思っています。」と話す佐藤さん。価値観を変化させた出来事とは何だったのか?修業期間に先生から教わったことは何だったのか?
堤人形や松川だるまを通して、”つつみのおひなっこや”佐藤さんの記憶を辿っていきます。
堤人形や松川だるまの歴史をさかのぼる
「堤人形の始まりは、江戸時代と言われています。当時堤町は、伊達政宗公のお城・仙台城の城下町として栄えており、奥州街道の北の宿場町として知られていました。
人の往来や物流など、さまざまな繋がりを生み出す要衝であり、加えて良質な土も採れたことから、堤焼という焼き物が発達していったんです。」
堤町は足軽の町であり、堤焼は足軽の冬の内職として始まりした。
「堤人形は誕生以来、歌舞伎役者や縁起物など時々の流行に合わせて、さまざまな形が制作されてきました。そうしたなかで朱色は縁起のいい色として、江戸時代から変わらず象徴的に用いられています。現在ではその鮮やかな色彩から、インテリアとしても人気がありますね。」
佐藤さんは堤人形を制作について「順調にいっても2~3ヶ月は必要です。」と話します。一度に大量に焼き上げるため、どうしても粘土を型に入れて乾燥させるまでに工程に時間を要するのです。そのため、縁起物を焼きあげることの多い堤人形では、次やその次の季節を見据え、作業にあたっているとのお話をしてくれました。
「干支の卯(ウサギ)は特にたくさんつくるため、夏あたりから仕込みを始めています。一般の方々よりも早く季節がやってくるイメージですね。」
また足軽の内職では、堤人形だけでなく松川だるまも製作されていきました。佐藤さんはこちらも製造されています。松川だるまの特徴はなんといっても大空や海を表現したと言われる群青色。仙台城城主・伊達政宗に配慮したといわれる目や眉毛など、日本に存在するだるまの中でも特徴の多いだるまです。
“身近で当たり前”から“大切な文化”へ 堤人形や松川だるまへの想い
佐藤さんの一族は代々、堤人形の制作をされている職人の家系。子どもの頃から堤人形や松川だるまは身近で当たり前な存在だったと話します。
「なんとなく触っていたり、繁忙期には手伝わされたりで、なんというか体に染み付いていましたね。今でこそ職人は少ないですが、多くいたので不思議なことではなかったんです。」
一方で職人以外の世界への憧れもあったと話す佐藤さん。ピシッとしたスーツを着て、夜遅くに帰ってくる、一家の大黒柱……。そんな子どもが誰しも想像する“父親像”にかっこよさを感じていたというのです。
「父の仕事は堤人形・堤焼の職人ですから、きつい・汚い・危険、いわゆる3Kなわけです。なので僕は最初、サラリーマンとして働き始めました。バブル期だったこともあり、楽しかったですね。」
その一方で多くの人と関わり外の世界での経験を経たことで、伝統工芸を手がける家業の魅力を認識したと話してくれました。
「堤人形は子どもの頃から身近にあった文化なので、当初は大切だという認識がありませんでした。 しかしサラリーマンとして出会った方々は、実家の話をすると口々に『それはすごいことだ』『素敵ですね』と返してくれました。 そうしていくなかでだんだんと『堤人形や松川だるまは大切で貴重な文化なんだな』と感じるようになっていったんです。 その想いはやがて『家業を父の代で終わらせたくない』という決意へと変化していきました。」
佐藤さんの決意を告げるとお父様は一言「うん」と、応えられたといいます。
『どの工程も手を抜いてはいけない』繋がりが育む、伝統工芸品の価値
家業を継ぐと決意したのちは、堤焼の修行のため、一度京都の人形屋さんへ弟子入りしたという佐藤さん。
修行先では、焼物に共通する工程を学び、さらには今も大切にしている伝統工芸品への想いを伝えられたと、話してくれました。
「『どの工程も手を抜いてはいけない』それが私の大切にしている、先生から教わった想いです。 先生はこうも言っていました。『制作する私たちにとっては、この焼物は数あるうちの一つかもしれない。けれど、お客様にとっては大切な一つなんだ』と。」
慣れ始めが一番怖い、という何事にも通ずる考え。佐藤さんが先生から教わった想いは、それから30年以上経った今でも忘れられないと言います。
「 現在も堤人形や松川だるまを作る際は、一つ一つの品物の先にいらっしゃるお客様、その方との繋がりを思い浮かべて制作しています。
とくに人形は作って完成ではなくて、出来上がってからが本番ですからね。お客様のお手元に届くことで繋がりが生まれ、価値が育まれていくんです。
実際、催事などでデパートなどに出店すると、お客様から『何十年も前に買って、今も家に飾ってある』というお言葉をいただくこともあるんですよ。 人形と関係のない話をしすぎて『何しに来たんだっけ?』となってしまうこともありますが(笑)」
堤人形の文化を未来へ繋げたい
繁忙期になると、お父様、お母様、お姉さまと家族総出で堤人形や松川だるまの制作にあたるという、佐藤さんのお家。 みんなで工芸品を囲みつつ、無駄話をしながら作業にあたる……。
家族と一緒に作業にあたると気持ちも穏やかになる、と佐藤さんは話します。
「仕事といいましょうか、一つの伝統を家族で引き継ぐことってないと思うので、独特な空間ですよね。」
現在、伝統的な工程を大切にする松川だるまを作っている佐藤さん。一方で堤人形ではの伝統を継承しながらトレンドに乗った新たな型を制作したり、絵の具を現代流にしたりして、工夫を施している佐藤さん。
「今堤人形は、いろいろな方に知っていただく段階にあります。 実は現在、地元に住んでいても、堤人形を知らない、といった人が増えている状況なんですよね。
そのため、伝統を大事にしつつも縛られすぎない形で、気軽に手に取っていただける商品を増やしています。 堤人形や松川だるまを通して、地域の方々の想いや努力といった歴史を未来に繋げていきたいと思っています。」
年末の縁起物制作でお忙しいなか、取材に対応いただいた佐藤さん。お話からは堤人形への想い、そこから生まれる繋がりへの大きな愛が伝わってきました。